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3.11 何をしていましたか?

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東日本大震災から8年ということで、各地で追悼式典等行われていることと思います。

ふと、あのとき自分は何をしてたっけ?と思ったので、当時の私の話と震災後にとあるきっかけで宮城県へ行ったときの話をしようと思います。

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東日本大震災とは

東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である。大規模な地震災害であることから大震災と呼称される。
発生した日付から3.11(さんてんいちいち)、311(さんいちいち)と称することもある。

警察庁は、2018年(平成30年)9月10日時点で、死者は1万5,896人、重軽傷者は6,157人、警察に届出があった行方不明者は2,536人であると発表している(ただし未確認情報を含む。余震によるものを含む)。日本国内で起きた自然災害で死者・行方不明者の合計が1万人を超えたのは戦後初めてであり、明治以降でも関東大震災、明治三陸地震に次ぐ被害規模であった。岩手・宮城・福島の3県を中心に、1都1道10県で死者・行方不明者が、また1都1道18県で負傷者が発生した。

当時の私

当時の私は愛知県で専門学生をしていました。真面目ではなく、極端に不良というわけでもなく、単位の取れる出席日数学校に行けばいいやと考えている学生でした。単位ギリギリの出席日数を保っていた私ですが、期末に病気になり出席日数が不足します。

春休みになり、2011年3月11日 私は出席不足の解消のために登校します。解消方法は一コマにつき「90分間の教科書の書き写し(原稿用紙6枚以上)」で不足コマ数は4、午前中2コマ解消し、午後へ。この90分が終われば不足解消だと書き進めていたとき、ふいに乗り物に酔ったような気持ち悪さを感じました。その原因は、ゆっくりと校舎が揺れていることでした。教室が19階にあったので小刻みな振動ではなく大きくゆったりとした揺れとなっていて、それが気持ち悪さを引き起こしていました。「おー、地震か。はっきり分かったのはひさしぶりだな」とか考えつつ書き進める私。

少し経って教師が説明に来る。教師は言う「震源地は宮城県だし、校舎の耐震性はしっかりしてるから心配ない」。このとき違和感を感じた生徒は多かったと思います。「宮城県宮城県って東北だろ?その地震の余波が愛知で感じられるってどういうことだ?」などと感じつつも私は出席不足を解消して寮へと帰りました。

寮へと戻って動画を見た私は衝撃を受けました。過去の地震の映像なんかは当然見たことがあります。でも自分も余波とはいえ揺れを感じているので、映し出される映像には妙なリアルさがありました。なにより津波の映像はすごかったです。人が、人の作り上げてきたものが飲み込まれていく様は潜在的な恐怖を呼び起こしました。

そんな「東日本大震災」と私はとあることから再会するのです。

宮城県へ行った話

私は専門学校を卒業し、一旦は愛知で就職をします。しかし、人間関係がうまくいかず退職し、地元の長野県へ戻り契約社員として警備会社(交通誘導)に入ります。一人で仕事ができるようになったころ、「手当を出すから宮城へ出張しないか」と言われました。震災復興事業で道路工事や建設工事などの仕事は人手不足というのはニュースでよく取り上げられていたことですが、当然付随する交通誘導員も不足していたのですね。手当もいいし、現状も見てみたいと思った私は宮城行きを承諾しました。

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百聞は一見に如かず、まさにその通りだと感じました。気が遠くなるほどの瓦礫の山を通り過ぎて着いた現場は酷いものでした。道路は割れてるし、酷いものだと垂直になって壁のように立っている。何とも言えない無力感が私を襲いました。

仕事自体は地元でやることと何ら変わらないのでいいのですが、生活環境がなかなかに堪えました。あてがわれた宿舎という名のプレハブ。基本的にプライベートスペースは無く、風呂、洗濯機はもちろん共用。ネット回線は無いし、娯楽も少なく、休日になっても何をするでもない。そんな生活を続けていてストレスがたまった別現場の土木作業員とかは少し厄介でした。片側交互通行の現場で止められて腹が立ったのか、通行ざまに空き缶を投げつけてきたり、わざとカラーコーンを車で吹き飛ばしていったりで散々でした。何度帰ろうと思ったかわかりません。

そんな生活を続けて3カ月で契約していた仕事が終わりました。劇的な心境の変化とかがあったわけではないですが、いつも「ご苦労さん」と声をかけてくれる爺さんの笑顔とか、「遠いところからありがとう」と言って手を握ってきた人の手のぬくもりとか、得るものが何もなかったわけではなかったです。

まとめ

3月11日ということで、私の昔話をさせていただきました。

私は一番大変な時に頑張っていた人々ではなく、復興の人手不足を補うために行った作業員の一人です。復興のために力になりたいと考えたボランティアでもなく仕事で訪れた人間です。生活環境は悪く、プライベートスペースがないので常にストレスでしたし、警備員は立場が低かったので作業員からいびられもしました。思い出してもいい思い出は少ないです。

でも行ってよかったとは思っています。無残だった道路が直り、これからも別の誰かが復興に関わってこの土地は元通りになっていく。人の命は戻らないけれど、町や道は直せる。そう思ったとき、学生時代に感じた震災への恐怖や宮城へ初めて来たとき感じた無力感が薄れた気がしました。